東京高等裁判所 平成元年(う)836号 判決 1990年6月20日
本籍
東京都文京区関口一丁目一番地
住居
同都新宿区下落合一丁目一番一-一二一〇号
無職
坂本富司夫
昭和七年八月二五日生
右の者に対する所得税法違反被告事件について、平成元年六月二〇日東京地方裁判所が言い渡した判決に対し、被告人から控訴の申立があつたので、当裁判所は、検察官山崎基宏出席の上審理し、次のとおり判決する。
主文
本件控訴を棄却する。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人小幡雅二名義の控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官山崎基宏名義の答弁書にそれぞれ記載されているとおりであるから、これらを引用する。
所論は、要するに、被告人を懲役一年二月(三年間執行猶予)及び罰金四〇〇〇万円に処した原判決の量刑は、特にその罰金額が不当に高く、また労役場留置の一日の換算額も不当に低過ぎる点で重過ぎて不当であるというのである。
そこで、原審記録を調査し、当審における事実取調べの結果をも併せて検討するに、本件は、旅館業を営んでいた被告人が、その所有する土地及び建物を売却して得た所得につき、所得税を免れようと企て、架空名義で開設した証券会社の取引口座に右売却代金を入金するなどの方法により、その所得を秘匿した上、当該年分の実際総所得金額については二四五八万三一四九円の損失が生じたものの、分離課税による土地等の長期譲渡所得金額が四億九四九四万七一〇円もあつたのに、これに対する所得税確定申告書を提出しないで納期限を徒過させ、もつて、不正の行為により、一億五三三七万二〇〇〇円の所得税を免れたという事案であつて、その逋脱額が多いことはもとより、被告人は、その所有する本件土地等を売却して莫大な利益を得たにもかかわらず、当初から納税する意思を有していなかつたので、架空名義を用いて二〇件前後にも及ぶ多数の取引口座を開設し、右売却代金をこれらの口座に分散させて預け入れるなどした上、これに対する所得税について全く申告しなかつたものであつて、その犯行態様が極めて計画的かつ巧妙悪質であるばかりでなく、著しく納税意識を欠いていること、以上の諸点に照らし、被告人の刑責は重いといわざるを得ない。
してみると、被告人は、本件発覚後、期限後申告をして、本件に関する本税のみならず、重加算税をも完納するなど深く反省していること、前科前歴もないこと、その他所論指摘の被告人に有利な諸般の情状(なお、所論は、被告人が架空名義の取引口座を次々に開設したのは、証券会社の外務員に勧められたことによるものであつて、脱税のためではない旨、また、本件売買代金をもつて株式を購入したところ、その株式が悉く値下がりし、多大の損害を被つたので、罰金刑を量定するに当たり、このような被告人の経済状態をも十分考慮すべきである旨主張する。しかしながら、特段の理由もないのに、架空名義を用いて証券取引口座を開設すること自体、所得の捕捉を著しく困難にするものであるから、脱税事犯においては、架空名義による取引口座の開設理由の如何を問わず、被告人に有利な情状とは認められない上、罰金刑を量定併科するに当たり、被告人の経済状態を考慮すべきであるとしても、本件のように、不動産の譲渡により莫大な利益を得た被告人が、これを運用して更に利殖しようと考え、その代金で株式を取得したところ、これが値下がりしたというが如きは、株式取引に通常伴う危険の域を出でず、そのような単なる目論見違いによる経済状態の悪化まで斟酌するのは相当でない。しかも、逋脱事犯に懲役刑のほか、罰金刑をも併科することとした趣旨は、脱税行為が単に国庫収入に損害を与えるだけでなく、その不正行為の反社会性、反倫理性に着目し、これに制裁を科すことによつて、国民の納税意識を高揚すると共に不公平感を是正し、併せて脱税の防止を図るという一般予防の見地に基づくものであつて、このような立法趣旨や被告人がなお相当の資産を有していることなどに徴すると、所論のような事情を被告人のため特に有利に斟酌すべきものとは考えられない。)を十分斟酌しても、被告人を前記の懲役刑に処した上、その執行を猶予し、これに罰金四〇〇〇万円(逋脱額の二六・〇八パーセント相当)を併科すると共に、その罰金を完納することが出来ないときは金一〇万円を一日に換算して、その期間労役場に留置することとした原判決の量刑が重過ぎて不当であるとは考えられない。論旨は理由がない。
よつて、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却することとし、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 半谷恭一 裁判官 堀内信明 裁判官 新田誠志)
控訴趣意書
被告人 坂本富司夫
右被告人に対する所得税法違反被告控訴事件に関する控訴趣意は左記のとおりである。
平成元年九月一八日
弁護人 小幡雅二
東京高等裁判所刑事第一部 御中
記
原判決の刑の量定は不当である。
原判決は被告人に対し「懲役一年二月及び罰金四〇〇〇万円に処する。右罰金を完納しないときは金一〇万円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。但し、本裁判確定の日から三年間右懲役刑の執行を猶予する。」との科刑をなしたが、罰金額が不当に高く、また労役場留置の一日の換算額は不当に低くすぎる。
一、 本件は被告人がその経営するホテルの土地建物を総額五億五〇〇〇万円で売却したことから長期譲渡所得金額が四億九四九四万円余りあつたにもかかわらず、確定申告を怠り一億五三〇〇万円の所得税をほ脱したというものである。
本件が無申告の事犯である点、脱税額が過大になつている点等に懲すれば原判決の量刑にも首肯できないではないが、原判決は被告人の情状に関する次のような点につき看過あるいは無視をしているのであり不当である。
二、 被告人はホテル売買代金を取得した後、多数の仮名口座を作つているのであるが、ホテル売却後の分については、税務当局から自己の所得を隠すためのものではなかつたことは是非理解していただきたい。
(一) 通常事業を経営するものが、事業所得に関しその所得を隠すため仮名口座等をつくることは知られているところであり、被告人もホテル経営時には若干あつたもののそれが主要なものであれば、これはかなり計画性のあるほ脱事犯である。しかし、本件はそのような計画性のあるものではなく、本件におけるホテル売却後に創設した仮名口座もそのような意味をもつものでは断じてないのである。
土地譲渡については、登記簿上の権利移動があるため、必ず税務当局に捕捉されていることは常識であり、被告人もこれは十分知悉していたものと思われる。また、本件のホテルの売買代金額についても自ずと当局の知るところとなるのであつて、被告人が仮名口座に少々の金額を預け入れしたとしても、売買代金が一旦被告人の口座に全額入つているのであつて何ら脱税としての実効性が極めて薄いのである。原審において、検察官は論告において、仮名口座を脱税意思の表れと見做し、また原判決も同様の解釈をなしているが、これは仮名口座は即脱税の手口とする紋切り形の解釈と言うほかないのである。被告人は原審において、検察官に尋問されるや仮名口座が脱税の手段であつたかのように認める供述をなしているが、これは被告人が検察官に迎合した発言であり信ずるに足りないのである。
(二) 被告人が、売買代金を入手した後、盛んに仮名口座を作つたのは次のような理由があつたのである。仮名口座の開設がふえているのは本件不動産売買の後の昭和六一年六月ころからのことであるが、これは転換社債や投資信託などは証券会社やその外務員などに割当てがあることから、一人の顧客に多数の割当てができないため、外務員の勧めるまま架空名義の口座を次々と開設していつたにすぎないのである。その結果、配当金の受領の必要からまた同一名義で普通預金口座を開設するということになり口座数がかなり多くなつたということなのである。このことは、本件被告人が脱税のための小細工あるいはその工作をしていないことからも十分理解できるのである。
三、被告人はすでに制裁を十分に受けており、高額な罰金を科するのは酷に失する。
(一) 被告人は原審の証拠調べで明らかなとおり、所得税本税、重加算税等で二億一四〇〇万円余りをすでに支払い、かつ住民税の概算四七〇〇万円を支払い済みである。加えて、被告人は昭和六二年四月にはNTTの株式を一株二五五万円で三三株取得したりまた英国航空空港の株式を一株一〇四五円で一〇万株取得したりしているが、これらはいずれも値下がりし、かなりの損失をしているのである。ちなみに、NTT株は現在一株一五一万円前後であり、英国航空空港は一株七六〇万円前後となつており、この両銘柄のみでも六二〇〇万円余りの損失となつているのである。その他被告人が本件譲渡所得により取得した株式はことごとく値下がりし、他の銘柄による損失も一二〇〇万円を下らないのである。幸い、中期国際ファインドや投資信託に投資していた部分があつたため、これらを換金して国税および住民税等の支払いが完了できたのであるが、いずれにしても本件における所得の大部分が被告人の手に残らない状態になつているのである。これらは、いずれにも自業自得と言うべきものであろうが、罰金刑の科刑においては斟酌してもよいのではなかろうか。すなわち、罰金刑は犯人の規範意識を覚醒させるとともにその行為動機を抑制する効果を期待しているものと思われるが、受刑者の経済状態によつてはその感じる苦痛が著しく異なるのであつて科刑においては資力等についても十分考慮すべきものと思われるのである。準備草案四八条において「罰金又は科料の適用においては、犯人の資産、収入その他の経済状態をも考慮に入れなければならない。」という条項を設け、改正草案では削られているものの、その精神は十分に尊重さるべきである。
(二) 被告人は、本件不動産を売却し、郊外に同様のホテルを取得しようと考えいたわけであるが、この目論見も実現せず、現在就職先もなく無職の状態にある。被告人もすでに五九才となり就職が困難であることはもとより、事業を開始する資力もないのが現状である。従つて、いわゆる食い潰しの生活をしているため、老後の生活に多大の不安を感ぜざるを得ないのである。これまで明らかにした支払いおよび損失を差し引くと計算上被告人にはいまだ一億三〇〇〇万円余り残つていることとなるものの、ホテル廃業後の生活費等にもかなり費消しており、手持ち資金にも窮しているのである。このような状況において、さらに被告人に罰金四〇〇〇万円を科するとすると、被告人は場合によつては労役場留置の執行を受けざるを得ない状況に追いつめられるおそれもあるのである。もともと労役場留置については実質的に短期自由刑と異ならない作用を営むことから重大な難点があるとされ、被告人が折角懲役刑につき執行猶予が付された意味もなくなるおそれがあるのである。
四、以上のとおり、本件においてはその諸事情を総合すると原審の科刑では罰金額が高額に過ぎ、また労役場留置の一日の換算額が低額に過ぎるので、原判決を破棄し、更に適正な裁判を求めるため本件控訴を提起した次第である。